誰かのせいになんてしてる暇は、人生には一秒も無い。
2014 / 05 / 19 ( Mon )
個性と言えば聞こえがいいですが、
結局はなんらかの「性格的・人格的な偏り」なわけで、
それを活かして使っていれば個性で、
それに振り回されて、自分も他人も傷つけていれば偏り、と言ってるんだろうな、って思います。



でね。
他人に対して怒りをしょっちゅー感じてしまうようなら、やはりそういう部分で偏りがあるんだろうし、
恋愛関係で問題があるなら、そこに偏りが、
家族との関係で問題があるなら、そこに偏りが、
健康問題なら、そこに、
セックスに問題があるなら、そこに、
経済的なところに問題があるなら、そこに、

…なにか偏りがあるんですよ。



あるんです。
あるんですよ。



というのが、自分の経験でよーーーーーーーーく分かりました。

(ごめんね。名前出しちゃう。)じぇいど♪さんと月子さん、それぞれと、
表面に表れてる問題についての整理とその考察から始まって、
内面の深いところへの洞察、
過去世と思われるさまざまな物語を通して解読できる魂の癖や在り方……
…を、語り合うことで、
霊的、魂的、肉体的、精神的……トータルとしての自分というものを、客観的に見て、ブロックの在り処を探り当て、それと向き合い、そこから沸き上がる感情をしっかり感じて受け止め、認めて……という作業を何度も何度も続けていったんですよね。

一人では無理でしたね。ほんとに。


そういう「友人」を得たことは、ほんとうに「宝物」を得たというのと同義だと思っていますが、
それを「縁」だと一言で片づけるのは、ちょっと違うのかもな、と思いました。


もちろん、縁なんですよね。

だけど、同じようにたくさんのご縁をいただいて、たくさんの人ともそういう関係になれるチャンスは等しくあったのに、
私は、彼女たちに深く信頼を寄せたわけです。



誰を選ぶか。
誰に選ばれるか。



それは、過去世からのご縁とかじゃなくて、
「今の自分」が自分のすべてでもって選び、「今の自分」のすべてでもって選ばれる、ということなんだよなー、と、あらためて思ったんです。
しみじみと思ったんです。



だから、
偏りがヒドくて人生がえらいこっちゃになっていても、そんなのは言い訳にならないんだよなー、と思うんです。


誰かのせいになんてしてる暇は、人生には一秒も無い。


と、あらためて思いました。








それは、私が恵まれてるからだ、と言う人もいるかもしれないけれど、
日常の些細な夫婦喧嘩とかではありますけど、そんなのどーでもいいことで、
もっと根本的な部分において、自分の人生の諸問題を誰かのせいにしたことは無いよな、って自分で思います。私は。

もしたしたら、そういう部分が、今の私を創りあげてきてて、
そういう部分のおかげで、私は宝物のような友人を得ることができたのかもな、と思ったんです。

さっきね!
のんびり紅茶飲みながらね!





瞬間湯沸器で、ほんとーに扱いに困るオカンですが、
そのオカンが、そういう人なんです。
私とは比べ物にならないくらい大変な、しんどい人生で、
その苦しみの多くは、母親(私の祖母)と旦那(私の父親)のせいなんですよ。

でも、オカンは、自分の人生の苦しみを誰かのせいにしたことはありませんでした。
少なくとも、私達子供にそんなことは言いませんでした。
(私は言語外のいろいろを感じ取って、小さい頃から苦しかったけど、でもそれは今は分かるからいいの。私も大人になったからいいの。)


だから私も、こうやって生きてこれたのかな、と思います。




オカンに感謝です。










すみません。
推敲全くナシで、心のままに書いたのを、投下します。
オチ無し!


All is well …だよなぁ。
All is Well
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